感動の感情とは、
他者に貢献したい気持ちを発生させる感情のため、
意識的に感動したい人は、良い人に見られたい人である。
人が感動する心理とは?
こんにちは、
最瞰主の良縁(みえにし)だ。
「何か変だよな、困惑する…」
これは、
前に涙活(るいかつ)を知ったときの、
俺の反応だ。
涙活とは、数人で集まり、
あえて感動する映画などを観て、
みんなで泣きあい、ストレス解消などをする。
そう、
この世には、
あえて感動したいという人がいる。
人によっては、俺みたく、
『何か変だし嫌だな…』
と、疑問に思う人もいるだろう。
では、この涙活をしている人と、
涙活を嫌だと感じてしまう人、
どちらが正しいのだろうか?
それを解くカギは、
感情にある。
そう、
今回は感動の正の感情の、
全てをお話ししよう。
この記事では、
・感動の役割は《他者貢献欲求》の発生
・感動と泣く事は全く関係がない
・涙活は依存の感情
これらについてだ。
ぜひ、
疑問に感じたことに対し、
納得しスッキリさせていってもらえたら幸いだ。
感動=他者に貢献
涙活という、
「意図的に感動しよう!」
という活動を不思議に感じた人は、俺だけじゃないだろう。
そう、涙活に限らず、
人は感動をすると、ときに涙が出て、
その後はスッキリし晴れやかな気分になる。
そして、実は、
感動の感情とは、
「他人に貢献する人」になるための感情だ。
映画などを観て感動をすると、
その映画とは全く関係なくても、
他人に優しくしたい、貢献したいと思うようになるだろう。
いや、むしろ、
「感動したすぐ後に他人に酷いことをしたい人はいないだろう」
といった方が分かりやすいかもしれない。
このように、実は、
感動の正の感情とは、優しい気持ちの元の、
《他者貢献欲求》を発生させる役割をもつ感情となっている。
人は感動をすると、
その人の中で、《他者貢献欲求》という欲求が発生するから、
他人に優しくしたいと思うようになるのだ。
感動の正の感情 … 他者に貢献したいという気持ちを持つようになる感情。
専門的にいうと、《他者貢献欲求》を発生させる役割を持つ。
感動で愛情を育む
さて、何となく、
「感動は他者に貢献したくなる気持ちを発生させる」
ということは分かってもらえただろうか?
そう、
感動=《他者貢献欲求》の発生だ。
そして、涙活否定派は、
モヤッとする内容かもしれないが、
またまた感動の良い情報だ。
この感動の本当の役割とは、
心を成長させるためにある。
この世に生まれてから、
全く一度も感動しないまま、
お爺さんお婆さんになってしまった人がいたらどうなるのだろうか?
そう、
《他者貢献欲求》が発生しないので、
もう本当に自分のことしか考えない人になる。
たまに、
中年のいい歳をした人でも、
自分の欲望ばかりの人がいるだろう。
あれは、
感動した経験がほとんどないので、
良くも悪くも他人に貢献したいと思わないのだ。
そして、
自分のことばかりになる。
人間は他の動物に比べても、
愛情が強い生物だ。
その理由こそが、
感動の正の感情を感じられる人間の脳にある。
世間一般のお爺さんお婆さんは、
孫や他人に優しく接したり、
人によっては草花も大切に愛でる。
これは、
感動した経験が多いから、
《他者貢献欲求》で行動する割合が多いからだ。
感動をした経験があればあるほど、
他者に貢献したいと思うようになり、
他者に愛情を与えられるのだ。
本来は感動して泣かない
『えっ!?そうなの!?』
とビックリするかもしれないが、
この話はしておかなければならないだろう。
感動とは、
本来涙は出るものではない。
感動は他者に貢献したいと、
思うようになる感情で、
泣くこと自体は、実は関係ないのだ。
『というか、そもそも何で人は泣くの?』
と思った人も多いだろう。
実は、泣くという行為は、
泣くこと自体が「承認行為」となっている。
「感動」は感情、「泣く」は行為。
悲しいという感情を感じて、
自分を承認するために泣くという行為をする。
悔しいという感情を感じて、
自分を承認するために泣くという行為をする。
泣く = 承認行為 なのだ。
ちなみに、このサイトは、
アインシュタインの思考実験より、
強力な潜在能力で解明している確かな情報だ。
だから、
内容には間違いがないと断言しておく、
信頼し、安心してもらって大丈夫だ。
そして、
映画などを観て感動をして泣くのは、
登場人物を承認したいから涙を流す。
そう、感動は他者に貢献したいという感情、
泣くは承認行為、
何だかイマイチよく分からないだろう。
実はこれは、
感動してその相手に貢献したいのに、
貢献できないから涙を流し、相手を承認している。
本来感動とは、目の前で頑張っている人がいて、
その行いに感動して、
その人に貢献するために発生する感情だ。
誰かの行いに感動
→《他者貢献欲求》を発生させその人を助ける、手伝う
だが、
デジタルの映像だと、
その相手を助けることはできない。
人間の脳が、
現在の造りになったのは、
はるか昔の狩猟をしていた時代だ。
そのときは、
デジタルの映像というのは考えてもみないもので、
感動は感動したその相手を助けるためのものだった。
例えば、あなたが、
友人の行いに感動したとしたら、
泣いてボーッと見てばかりいないで、友人を手伝おうとするだろう。
本来は、
こういったもののためだ。
だが、
映画であったり、ショーであったり、
昔の話であったりすると、
その感動した行いを手伝うことはできない。
そのため、感動しても手伝えず、
相手のその行いを承認するために、
人は承認行為という涙を流す行為をする。
そのため、
感動の感情と、泣く行為自体は、
実は全く関係ないものとなっている。
感動して泣く … 本来なら感動するその行いを手伝いたいが、映画などで手伝えないので、その行いを承認するために涙を流す。
涙活について
ここまで聞いて、
感動が他人に貢献する気持ちになる、
とても良い感情というのは分かって貰えただろうか?
では、
涙活に話を戻そう。
これは、
涙活をしている人は失望するかもしれないが、
実は、涙活はあまりお勧めできるものではない。
『感動することは良いことなのに、涙活は何故?』
と思うだろう。
そう、
感動すること自体は良いが、
皆で集まって感動しようということが、実は良くないのだ。
泣く事は良い事だから、
皆で集まり、
意図的に涙を流そう。
皆で、
優しい模範的な人間を目指そう。
これの何がいけないのだろうか?
それが、
模範的だということだ。
『模範的がダメ?模範だから正しいでしょ?』
と意味が分からないだろう。
感動することが良いこととして、
皆で集まりあえて感動して泣く。
模範的だと思う行動を妄信する、
そんな自分を皆に見てもらう。
これは、実は、
模範執求という依存の感情なのだ。
依存の感情とは、
平たくいえば他人から感情を欲し続ける行動をするものだ。
感動したいだけなら、
皆で集まったりしないで、
自分の本当に良いと思う作品を、一人で観て感動すればいい。
他人に求める行為を、
「承認欲求」といって、
現代では否定的に見られるだろう。
あれの何がいけないかというと、
本質的には正の感情ではなく依存の感情で、
他人に依存しおかしくなる元だからだ。
涙活も、
「これは泣ける作品だ、みんなで観よう」
と、妄信しありもしない理想を求め、
他人から良い人に見て欲しいという、
承認欲求の集まりということになる。
涙活とは、
模範的な行動を、
妄信し求める模範執求なのだ。
ストレス発散が目的とはいえ、
意図的に感動させようという活動の時点で、
感動ポルノと似たようなものといえるかもしれない。
(正確には、涙活は模範執求やモブ執求、感動ポルノは模範執求+ジンソウ執求。)
どうしても、
泣いてストレス発散したいときは、
一人で自分の好むものを観て、一人で泣こう。
ジーンと自然に感動が発生することは、
全く悪いことではなく、むしろ良いことなので、
人生で様々なものに触れて感動し、感動は自分の胸だけに留めておいてもらえたら幸いだ。
感動の正の感情のまとめ
・ジーンと感動することで《他者貢献欲求》が発生している
・人生で感動を感じないと自分のことだけになる
・あえて感動したいときは涙活ではなく一人でひっそりと感動するのがオススメ
さて、ではもし完璧主義な傾向にある、
模範的で称賛されることがカッコいいと思う人は、
模範執求に依存している可能性が高い。
子育てがメインの内容ではあるが、
模範執求に依存することにより起こる、
形容し難い恐ろしい真実が書かれてある。
気になる人は、こちらだ。
泣くという承認行為について、
深く知りたい人はこちらだ。
涙活自体は、自分は否定的だが、
感動、また泣く行為そのものは、
とても良いものだと思っている。
心理学としての専門的な解説
感動とは本来涙が出ないもの
感動とは実はそれ自体が感情であり、『感動した』と感じたときにジーンと正の感情が発生していて、
それが発生することによって感動した相手に貢献したいという気持ちを発生させる役割をもっている。
『映画やドラマの主人公に感動した』
『テレビで子供や動物の頑張っている姿に感動した』
これらのとき、その相手の行いに感動し感動の正の感情が発生することで、その相手を助けようとしているのである。
よく映画やTVで感動して泣くことがあるが、これは感動の正の感情が発生しても、映画の主人公などは助けてあげられないため、
自分の『相手を助けてあげたい』という気持ちを承認するために涙を流す。
(泣くというのは泣くことそのものが承認行為であり、詳しくは「社会問題の心理」のカテゴリーの【人が泣く心理】の記事を参照していただきたい。)
そのため、例えば友人などの行いに感動してその場で助けるなど行動に移せた場合は、感動の正の感情に基づいて行動しているため涙は発生しない。
太古の昔、狩猟で生きていた時代に現在の構造となった人間の脳にとっては、映画や番組だから手を差し伸べられないというのは想定されていなかったことであり、
そのため、現代では感動すると涙が出やすいということになっている。
本来は、感動は涙を流すものではなく、感動した相手を助けたいという他者貢献の気持ちを発生させ、相手を助けるという行動を促す役割をもつ正の感情なのである。
感動の正の感情
感動の正の感情とは、その対象に感動することで、
対象に貢献したいという気持ちを発生させる役割をもつ、愛情の《他者欲求》の感情である。
対象(他者)に貢献したいという気持ちを《他者貢献欲求》といい、
感動は《他者貢献欲求》を発生させる役割をもつ正の感情となっている。
人間は元は皆、自分を受け入れられたい《他者承認欲求》をもっており、そこから感動することで《他者貢献欲求》に切り替わり、
感動した経験を通して承認欲求を満たせ、貢献欲求で行動するようになり、貢献欲求の割合が増えていくということは精神的に成長していることを示すものとなる。
他者に受け入れてもらいたいという《他者承認欲求》を満たす
→《他者貢献欲求》に変わり今度は自分が誰かを受け入れてあげたいと思うようになる
少し分かりづらいと思うので、赤ちゃんから始まる人間の心の成長を踏まえ、《他者貢献欲求》の割合が増えるということはどういうことか説明しよう。
【愛情の《他者欲求》での心の成長】
赤ん坊【他者承認執着】
→幼少期《他者承認欲求》
→青年期以降《他者貢献欲求》
嬉しさや感動を感じることで徐々に《他者貢献欲求》が行動原理になってきて、
最終的には孫を甲斐甲斐しく世話をする祖父母のような、自分が受け入れてもらった経験を通して、
今度は自分が世話をして人を受け入れてあげるのが好きなようになる。(《他者貢献欲求》の割合が増える)
・赤ん坊の頃
強く受け入れられたい【他者承認執着】の状態なので大泣きして承認してもらうことを求める
・幼少期と学童期(小学生時代)
【他者承認執着】が受け入れてもらえた「嬉しさの正の感情」で《他者承認欲求》と成長し、親をはじめ大人に受け入れて欲しい行動をとる
・青年期以降
《他者承認欲求》が「感動の正の感情」を感じることで徐々に承認欲求から貢献欲求に変わり、
《他者貢献欲求》の割合が増え相手を受け入れてあげる側の親になりたいという気持ちに変わっていく
小さいうちは《他者承認欲求》を満たし続けることを求めるので、《他者承認欲求》を満たす役割の嬉しさは感じても、
《他者貢献欲求》に変わる感動は感じないことが多い。
また、大人が感動しやすいのが子供や動物など自分より未熟だと捉えている対象が頑張っているときであり、
『まだ小さいのに頑張ってる、助けてあげたい』
と思うことから感動の正の感情が発生し《他者貢献欲求》に変わりやすい。
自分より小さい子に感動するのは自分が歳を重ね自然と受け入れて欲しい側から受け入れる側に変わっていく成長を示すものであり、
また助けるために自分より年齢が下の者に感動しやすいので、逆に若者が自分より年長者に対して『一生懸命頑張っている姿に感動した』と思うことは少ない。
これらのように、人は感動することで《他者貢献欲求》が発生しており、それによって徐々に受け入れ助けてあげる側である大人に心が成長していっているのである。
感動は親から子供へと愛を紡いでいく為のもの
感動の本来の役割は、
「親に受け入れてもらい嬉しさと感動がまじり合うことで《他者承認欲求》が《他者貢献欲求》に変わり、同じように自分の子も受け入れる」
という役割で発生するものだ。
そして、親に受け入れてもらう嬉しさ+感動がまじり合うと、親にしてもらったことを覚え、そのしてもらったことを自分の子にすることで、自分の子を受け入れるようになる。
(例えば、悩んでいるときに親に話を聞いてもらい、親の親身な対応に、嬉しさ+感動を覚える。
その記憶により、自分の子が悩んだときは親身に話を聞く行動をする。)
親から愛情をもらい、そのもらった愛情を今度は自分の子に与え、代々愛を紡いでいっているのである。
そこから派生して、現在では誰かを助けてあげたいときに感動して、《他者貢献欲求》に変わり助けてあげるというような、他人に愛情を与える役割ももつようになった。
映画などで感動するのは登場人物のその行いに感動し助けてあげたいと思うからであり、その場では助けてあげられないので泣いて承認し、
そのとき発生した《他者貢献欲求》を代わりに自分の家族や恋人を大切にしてあげる行動で満たそうとしているのである。
何かに感動した後、その感動した相手を助けられなくても周りに優しくなれるのは、《他者貢献欲求》が行動原理になっているからとなる。
ときに動物や物事に対して感動するのも、感動の正の感情は人間が人間同士だけでなく他の生物や物事も愛し、
生きるもの・存在するもの全てに愛情を与え共存していくためのとても大切な感情だからとなっている。
(映像や絵画など、生物ではなくその物事や分野自体に感動することがあるが、対象をミラーニューロンという共感や模倣をつかさどる脳の神経細胞で擬人化し、人と捉えていることから感動の正の感情が発生している。
このとき強く感動を覚えれば覚えるほどその分野に貢献したいとなり、その分野の発展に尽力したりする。)
感動するということは、このように他人に貢献しようと思える原動力になる、
人間に発生する感情の中でもとても素敵なものである。
他人との繋がりが希薄な今の時代だからこそ、この感動の正の感情が必要になってくるかもしれない。
正の感情としての性質
【属する欲求】 他者欲求
【行動原理】 他者貢献欲求
【愛情の《他者欲求》の正の感情のサイクル】
期待(承認欲求の発生)→嬉しさ(承認欲求の持続)→感動(貢献欲求の発生)
他者に受け入れられると[期待]して行動し、受け入れてもらったときに[嬉しさ]を感じてそれを繰り返し、[感動]して自分も他者に貢献したいと思うようになる
正の感情のサイクルを通して承認欲求⇄貢献欲求のサイクルを繰り返すようになり、〘幸福感〙に到達できる。
【欲求のサイクル】
《他者承認欲求》⇄《他者貢献欲求》
他者にありのままを受け入れられたい《他者承認欲求》(期待、嬉しさ)⇄他者のありのままを受け入れてあげたい《他者貢献欲求》(感動、愛しさ、幸福感)
このように感動の正の感情は《他者承認欲求》を《他者貢献欲求》に変える役割がある大切な感情となる。